4話「落ちこぼれの任務」

 

ここ数日――空気が、妙だ。
誰も言葉にはしない。
けれど肌が、呼吸が、どこかざわついていた。
夜の静けさが、やけに重たく感じられる。
風の流れも、光の粒も、いつもの日常から微妙に外れている気がする。
そういう“違和感”に、彼女の感覚は誰よりも敏感だった。
 
何かが始まる前触れ。
鼓膜の奥で鳴るような、かすかな予感。

「イオ、お前が見てこい」

その声は冷たく乾いていた。
指示というより、“処分品の整理”でも言い渡すような無感情さ。
まるで風に紛れる枯葉の音のように、誰の心にも届かない言葉だった。

周囲にいた者たちは、小さく笑ったり目を伏せたりした。
それでも誰一人、彼女をかばわない。
ただひとり、隅にいた両親ですら、無言のままだ。
責めもせず、かばいもせず──ただ、見ている。
重く、冷たい沈黙だけが、イオの背に降り積もっていた。

「前回の失敗の尻拭いには、ちょうどいいだろう」

吐き捨てるようなその言葉。
男の口元にはあからさまな嘲笑が浮かんでいた。

それでも、イオはうなずいた。

指令は、華鉈家の本部会からのものだった。
内容は「異変の調査」。
ただし、あくまで監視。戦闘を前提とした任務ではない。

だが、それが妙だった。

(……ずっと前から分かってたのに監視だけ?)

異変の気配は、すでに肌に染みついていた。
感覚の奥、血の流れと共鳴するような、異様な感触。
言葉にはできないが、決して自然ではない、逸脱した何かがこの調査対象の山には存在している。
誰も動かなったのはもしかして今になるまで気づいていなかった?
あるいは──どう動いていいかも分からないほど、“それ”が異常すぎるから?

(……だから様子見なんだ。ぼくに押しつけるのも、きっとそのため)

そんなふうに扱われることには、もう慣れていた。

小さな頃から、劣等生だった。
技術の継承は遅く、言葉も遅く、空気を読むことも苦手だった。
周囲の期待は、少しずつ失望に変わり、ついには「落ちこぼれ」として扱われるようになった。

それでも。

それでも、ぼくは──失敗を取り戻しに行く。

腰には、3本のナイフ。
刃の材質、重量、手に吸い付くような柄。
どれも、イオが自分の手に馴染むように作り上げた特注品だ。
何度も壊し、何度も手を切って、それでも作った、ぼくだけの“牙”。

イオは、音もなく駆けだした。

森の中、草木の間を縫うように走るその姿は、風より速い。
足が地面を蹴る瞬間、すでに数メートル先の枝へと飛び移っていた。

木々の間を抜け、岩肌を駆け上がる。
着地の音ひとつ立てず、草の匂いだけが後に残る。
まるで影のように、跡形もなく。
常人では決して辿り着かない領域の所作にもかかわらず彼女の心は複雑だった。
(みんなすごい…華鉈の誰もがしっかり任務をこなして、評価されて…それに比べて、ぼくは…)
イオは、口に出さずとも、心の中で何度も繰り返していた。
(ぼくなんか、まだ全然…落ちこぼれのままで……)

そう自責の念に駆られるも足は緩めない。異変の発生地点と思われる山域には、あっという間にたどり着いた。

(……やっぱり、ここらへん)

風も、葉の揺れも、鳥の鳴き声も、すべてが“正常”に見える。
けれど、明らかに──そこには“異常”があった。

まるで、目に見えない圧力が空間を押し潰しているような感覚。
普通の人間なら感じ取れないその波動を、イオの神経は確かに捉えていた。

身を低くし、木陰に溶けるように近づいていく。

──そして、視界が開けた先。

そこに広がっていたのは、季節が混在した、幻想のような世界だった。

桜が満開に咲き誇り、隣には濡れてもいない紫陽花が青く輝く。
夏のひまわりは空を見上げ、その根元には彼岸花が紅をにじませていた。

(なに、これ……)

美しい──
まるで夢だ。

いつここに足を踏み入れたのか、イオにもわからない。
気づけば、そこに立っていた。

さっきまでの警戒心が、するりとほどけていく。
温かく、心地よい。
魂の芯を撫でられるような、不思議な感覚。

(なんだろ……こんな場所……見たことない)

気がつけば、イオの足は自然と前へ進んでいた。
草を踏みしめる音も、空気を揺らす気配もない。
ただ、導かれるように、吸い寄せられるように──

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