2話「迷い込む研究者」

 

ここは、奇妙なほど静かだった。

木々は微動だにせず、風の囁きもない。
それでいて、あらゆる“季節の気配”が同時に息づいていた。

──春に咲くはずの桜が、秋の陽射しの中で満開の花を揺らしている。
すぐ隣では、梅雨に咲く紫陽花が、濡れてもいないのにみずみずしく青く咲いていた。
さらに視線を移せば、真夏の象徴とも言える向日葵が空を仰ぎ、
その足元には、彼岸花が血のような赤を滲ませ静かに咲き誇っていた。

「……これは、どういうことやろ…?」

肩に掛かる長さのまるで絹のように綺麗な白い髪をなびかせ
全てを見据えて青い瞳の女性は立ち止まり、静かに呟いた。

彼女の視線は、目の前に広がる風景をじっと見つめている。
季節がいくつも重ね焼きされたかのように、過去と現在が薄膜となって揺らめいている。
まるで時代そのものがズレて見える光景に、脳が認識を拒み、一瞬処理が止まる。──そんな世界。
脳が認識に時間を要するほど、そこは現実離れした光景だった。
彼女の中で、研究者としての論理が崩れていく音がした。

幼い頃、彼女はこういった景色にまったく関心がなかった。
遺跡、古文書、歴史を学んで何になる?
明日を生きるだけで精一杯。過去を振り返る余裕など、どこにもなかった。

そんな彼女の人生を決定的に変えたのは――奇妙な“師匠”との出会いだった。

出会いは、場違いなほど静かな夕暮れの博物館だった。
その日は、いつもと同じ帰り道のはずだった。
ふと、路地を曲がる気になり――理由は思い出せない。ただ、“そっちへ行くべきだ”と直感が告げた。
そして気づけば、古めかしい建物がそこにあった。
煉瓦造りの小さな博物館。
夕焼けに照らされ、看板の文字はかすれて読めない。
「……こんなところに博物館なんてあったっけ?」
さっきまで自分が歩いていた道は何度も通ったことがある場所だ。見落とすはずがない。
けれど、そのときの彼女には“入ってみたい”という衝動の方が強かった。
中は驚くほど静かだった。
その興味を抑えきれず入館し、誰も触れない郷土史コーナーの一角で、埃をかぶった和綴じ本を開いている人物がいた。

白髪とも銀ともつかぬ髪。和装に革手袋。年齢不詳。
ページをめくる指先には、刀鍛冶にも学者にも見える“職人の癖”があった。

ふと、その人物が視線を上げる。
「君。……背後に“何か”ついている。放っておくと厄介だ」

彼女は霊感などない。ただ、昔から“憑かれやすい体質”だと母に言われていた。
塩やらお守りやらを持たされていたのもそのせいだ。
けれど、この人の声音は――冗談でも脅しでもなく、“知っている人間のそれ”だった。

何かに触れるように空中を掴み、あまりにも慣れた手つきで私と何かを引き剥がす。
一瞬の出来事で少し混乱したが、身体が少し軽くなった気分になる。

「これも何かの運命か…」

その人物は語った。
どうやら表の学会にも武術界にも属さない、時代考証と古武術、そして“古の異能史”に通じる、少し世界からズレた研究者であると。

「歴史は、過去のものではない。生き延びる術である。
過去を知る者は未来の嵐を予測し自分はどうするかを選ぶことができるが、
知らない者はただ流されるだけだ。
 古文書の中には、人ならざるものと向き合った人間たちの知恵が記されている。
 君が今、生きやすくなる可能性が――そこにある」
その一言が、彼女の心に刺さった。

師のもとで、古文書の読み解き方を学び、失われた刀装具の技術や、武具に“宿る思念”を知った。
それは学問であり、修行であり、時に怪異と並走する奇妙な人生の手ほどきでもあった。

そして今、彼女の腰には一振りの日本刀がある。
研ぎ澄まされた刃文が波打つその刀は、師から託されたものだった。

この刀は、ただの武器ではない。
人ならざるものすら――斬れる。

霊感のない彼女でも扱えるようにと、師が“仕掛け”を施した特別な刀。
手にしてからというもの、彼女の周囲には、以前よりも“説明のつかないもの”が寄ってくるようになった。

──だからこそ、いま目の前にある異様な景色にも、ほんの少しだけ心当たりがある。

「……気分転換のつもりで散歩に来ただけやったけど……脳を冷やすどころか加熱しそうやねこれは…」

そう。
今日は単なる“散歩”だったのだ。

行き詰まった研究の合間、脳のクールダウンと称して、趣味である山歩きに出かけた。
ほんの気晴らしのつもりで足を踏み入れた山道。
なのに──彼女は、見知らぬ道を進んでいた。

分かれ道などなかったはずなのに。
気がつけば、登山道とはまるで異なる、やけに滑らかで、整備されたあぜ道を歩いていた。

手すり付きの小さな橋もある。
土の踏み締められ具合や、わずかに整備された木道の痕跡。
明らかに、人の手が入っている。

しかし、そこに人影はない。

いや、それどころか──

「電波、ある……?」

スマートフォンを確認した彼女は、眉をひそめる。
偶に圏外になるはずの山奥で、Free Wi-Fiが通じている。
それも、固定された基地局由来と思われる強さで。

「……ここ、都市部でもないのに……」

彼女の目がわずかに鋭くなる。

脳がゆっくりと起動する。これは、論理で割り切れない“現象”だ。
そして彼女は、そういうものに一番弱い。

否応なく、興味が湧いてくる。

この異常な環境に理屈をつけたい。観察し、測定し、記録したい。
その欲求が、彼女をさらに奥へと導いた。

不自然にぽつりと建つ一軒の屋敷があらわれた。

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