一方その頃、イオは山奥の里にある情報封鎖されたコンクリート打ちっぱなしの小部屋で、上層部への報告を行っていた。
蛍光灯の音が、耳に張り付くように響いていた。キィ……キィ……と、無機質な蛍光のうなり。
部屋の中央には一台の金属製デスクと、無人の端末──その前に、直立するイオの姿があった。
「……今回の異常の発生源、対象“特異存在”、現認しました」
無人のはずの端末から、複数の視線を感じた。
沈黙は、決して無関心ではない。むしろ、必要以上の関心の裏返しだった。
「通称《キューブ》。この世界の物理法則に属さない存在と判断しています」
「そしてこの世界を崩壊させる程の力があるかと予想できます」
イオの声は普段通り、無駄がなかった。だが、わずかに喉の奥が乾いている。
報告のために何度も言葉を練ったはずなのに、口にした途端、それが嘘くさく聞こえてしまうのはなぜだろう。
「それを観測している人物がいます。名は“天硝路ろまん”。研究者を名乗っていますが…その存在は明らかに常人の枠を超えていました」
そこで、端末の奥から低い声が割って入った。
「──キューブ…そんな危いものが…? 世界が終わる?それを証明する画像は? 映像は? とってきたんだろうな?でまかせじゃないだろうな?」
言葉が、喉で止まる。
イオは、一拍だけ間を置いた。それが、永遠にも感じられた。
──そうだ。
ろまんとあれほど深く接触し、あの《キューブ》と至近距離で対峙したというのに。
彼女は、ひとつの画像すら記録していなかった。
なぜ? と、思考が遅れて追いつく。だがもう遅い。
浮かぶのは、あの空間の異様な光景。
木々の枝には春のように桜が咲き乱れているのに、地面には秋の花が咲き乱れていた。
夕暮れでもないのに、空は茜色に焼けていた。
気温は感じないのに、風がなぜか“温度”として肌をなでた。
屋敷の姿も──どこか、現実の重力から浮いているようだった。
柱も壁も存在しているはずなのにだ。
あの場所は「まるで、夢の中に迷い込んだみたいだった」と言えば、それが一番近い感覚だった。
次に天硝路ろまんと初めて対峙したときのことを思い出す。
ぼくを目の前にして、なぜか彼女は興味の対象としてこちらを見ていた。
恐怖も警戒もなく、ただ純粋な「好奇心」で観察していた目。
そう──あの目だ。あれがすべてを狂わせた。
(……ぼくの“経験”が、通用しなかった)
あの研究者は、敵ではなかったように思える。
だが味方でもなかった。
それどころか、“こちらの存在をもはや問題にしていなかった”。
そして──《キューブ》。あの存在は言葉で説明できるものではなかった。
視界にあるはずなのに、空間がそこだけ“凍って”見える。
見つめるほどに目の奥が痛み、鼓膜の裏から何かが浸食してくる。
自分の心が裂ける寸前で、わけもなく「もうやめて」と思った。
──完全に飲まれていたのだ。
あのときのイオは、“ただの人間”に戻っていた。
冷静さを失っていた。
あってはならない、最も愚かな判断ミス。
「……失念しました」
空気が一瞬、止まる。
「──だからお前は“使えない”んだ」
吐き捨てるような声が、イオの心に深く突き刺さった。
「引き続きお前には異常の場所に行ってもらう。次は忘れるな、情報をもっととってこい」
「それを材料に、我々はどう行動すべきか判断する」
「その研究者も監視しておけ。報告は怠るな。もし研究者が危険な事をするようであれば即時排除しろ……以上だ」
通信が切れる音は静かだったが、それが逆に怒りを明確にしていた。
イオは数秒間、無言で突っ立っていた。
表情を変えることなく、ゆっくりと部屋を出ていく。
夜風が冷たい。
サイバーな街の一角にある自室に戻る途中、イオはふと立ち止まり、空を見上げた。
雲のない空。いつものはずの風景が、なぜか今日は遠く感じた。
小さな扉を開け、部屋に入る。
無機質な部屋。机の上には、報告用の端末が静かに光っている。
キューブの事を思い返す
「……誰が、あんなものを制御できると…」
イオは呟き、椅子に腰を落とす。
天硝路ろまん。あの奇妙な研究者。
──本来なら、自分の敵であるはずの存在。
でも、敵とも言い切れない。
合理的に見えて、どこか壊れていた。
柔らかな口調と微笑の裏に、理屈を超えた“執着”があった。
もしかしたら人類の敵になりかねない存在を目の前にして、彼女は微笑みながら「私の楽しみ」と言った。恐れも、逃げる素振りもなかった。
狂っている。なのに──眩しかった。
イオはずっと孤独だった。
訓練では誰よりも早く動き、誰よりも冷静でいるよう求められた。
感情を捨て、効率と任務だけを信じて生きてきた。
天硝路ろまんのような存在は、ずっと遠くにあるものだと思っていた。なのに。
あの短い時間の中で、イオの中に何かが残った。
嫉妬か、憧れか、それともただの興味か。
まだ言葉にはできない。
──けれど確かに、心の中のどこかが、揺れていた。
イオはゆっくりと毛布を引き、ベッドに横たわる。
天井を見上げる。
今日と同じ明日が来るとは限らない。
天硝路ろまんと再び会えば、次はどうなるかも分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
《キューブ》を巡る異常は、まだ始まったばかりだった。
そして、自分の中の“異常”も──すでに始まっていた。
イオは目を閉じた。
夜は、静かに、深く、すべてを包んでいった。
***
翌朝。
カーテンの隙間から射す微かな朝の光に、イオは静かに目を覚ました。
目覚ましの振動音はまだ鳴っていない。枕元の時計の針は、任務開始の一時間前を指していた。
けれど、身体は眠っていられなかった。
胸の奥に、ひっそりと沈殿している違和感。
まるで、水底で何かが蠢いているような、静かなざわめき。
(……夢を見ていた)
内容はもう覚えていない。記憶の輪郭は、目を覚ました瞬間に崩れ去っていた。
それでも――“アレ”の存在だけは、はっきりと残っていた。
黒い立方体。
自分を見ていた。視線などないはずなのに、確かに“見られていた”という感覚だけが皮膚にこびりついている。
イオは無言でベッドから足を降ろす。
冷たい床が素足に触れた瞬間、わずかに身をすくめた。
空調は常に一定温度に保たれているはずだが、今朝の室内はやけに冷たい気がした。
イオはゆっくりと立ち上がり、足音を殺しながら洗面台の前に立つ。
白くて無機質な蛍光灯が、鏡の中の自分を照らし出す。
無表情。感情の起伏を感じさせない、完璧に訓練された顔。
――なのに、そこにわずかな違和感があった。
(……違う)
目の奥が、どこか熱い。
頬の筋肉が、少しだけ緩んでいる気がする。
昨日と同じはずの自分が違って見えた。
冷たい水で顔を洗う。
肌を打つ水流が、心の奥のざらつきを少しだけ削っていく。
タオルで顔を拭きながら、鏡の中の“異物”がほんの少し馴染んだように見えた。
(昨日……あの女と話したから?)
天硝路ろまん。
研究者。異常の中心に自ら飛び込む、危険な女。
知りたいという欲望に忠実で、傲慢で、感情を置き去りにするような女。
だがその傲慢の裏に、ふと見せた素顔――
無自覚のままに、こちらの胸の奥を撫でるような、妙な性格を孕んでいた。
イオは小さく頭を振って思考を断ち切る。
任務だ。
彼女はベッド脇の棚に置かれた任務端末を手に取り、起動ボタンを押す。
起動音とともに、淡い青白い光が今日のスケジュールと任務内容がホログラムで浮かび上がる。
《監視対象:キューブ・天硝路ろまん──》
淡々とした文字列が、まるで感情など存在しないかのように、そこに並んでいた。
イオは短く息を吐いた。
(今度は……忘れない。見落とさない。)
昨日のような凡ミスは、もう繰り返さない。
自分の役割はあくまで監視。感情を挟む隙間など、本来ないはずだった。
視線を端末から外し、壁際に置かれたナイフホルダーへと歩み寄る。
横に置かれたナイフを一本ずつ柄を握り、重さと冷たさを確かめる。
手のひらに馴染んだ感触。刃紋の違い、摩耗したグリップ。
愛用のナイフ3本。刃紋の違いも、グリップの摩耗具合も、すでに掌の延長のような存在だ。
腰のホルダーにナイフを差し込む。
その瞬間、背筋がすっと伸びた。
それらすべてが、彼女を“兵器”として再起動させる。
だがその胸の奥、ほんのわずかに――昨日の柔らかい時間の残滓が、まだ温度を持って残っていた。
ドアノブを握る。
押し開けたその先に広がる世界は、まだ《異常》の只中。