イオがようやく口を開く。
その声には、先ほどまでの警戒と怒りが、ほんの少しだけ和らいでいた。
「明らかに“異常な気配”を感じたからだよ」
ろまんが少しだけ首をかしげた。
「異常な気配……?確かにここは異常やけど…」
「飽きれた。まず、あなたそれがどれだけのことか、理解できてる?」
「いや?」
即答に、イオの目が細くなる。
だがすぐに肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「──ここは、あなたが思ってる以上に“異常”すぎる。
この付近に住んでいる人はまだ気づいてないみたいだった。これだけ明らかに異常なのに、みんな普通に生活してた。
この異常に“気づかない”人々が普通なのか、それとも……気づいてしまうぼくたちのほうが“異常”なのか。それ考えた?」
「んなわけない。私は君ほど繊細やないしね」
さらりと返すろまんに、イオは小さく笑って続けた。
「──まさか。あんたが“異常”の原因?」
「そんなわけ──」
「そうよね。そんな気配は、あなたからはしてないもの。
何かを呼び寄せる異常者ではありそうだけど」
「ふっ」
ろまんが噴き出す。イオの皮肉が、あまりに的を射ていたからだ。
「話、戻すね」
イオは肩の力を抜き、再び言葉を継ぐ。
「異常な気配に引かれて探索してたら、いつの間にかここにたどり着いてた。
本当にいつの間にかね。
少しして、フクロウが蔓に絡まっていたのを見つけたの。そのフクロウを助けたら、導かれるようにここに──ってわけ。」
「ああ……あのフクロウか。
あの日以降見てなかったんはそのせいなんやね……」
ろまんが小さく呟いた。
「そして──ここで、この紙を見つけたの。
“あれを託します”って書かれてて。……この紙に書かれてるものが、今の異常の原因なんじゃないかってぼくは思ってる、それにこの壁画もね」
「──それで、ばったり私と出会ったわけね」
「そういうこと。……それで、見つかったの? 生き物か何か?」
「……さぁわからん」
「ごまかさないで」
「いや、本当に。しかもあれは“私の”手に負えるものではないんよ。……今は、まだね」
「すぐに見れるものなの?」
「ああ。見せるよ。ついてきて」
そう言って、ろまんが背を向ける。
イオも無言でそれに従い、ふたりは奥へと歩みを進めた。
地下へと歩みを進める音が、妙に耳に残る。
「……ぼくばかり喋ったけど、今度はあなたの番。なんでこんなところにいるの?」
ろまんは少しだけ肩をすくめて答えた。
「私も、君と同じでさっぱりわからないんよ。
行き詰まった研究の息抜きに、趣味の散歩をしててね。本当にただの散歩。そして、気づいたらここに居た。
君みたいに“気配”を感じたわけでもない。ただ……気づいたら。」
イオにとってそれが逆に、異様だった。まるで導かれたかのような…
「見ての通り、この場所はあまりにも異常すぎる。
研究者としての探求心が──どうにも、くすぐられてしまってね。私は興味を持ったものは、とことん調べたい質なんよ」
イオはそんなろまんを、横目でじっと見た。
互いに探るような会話。
けれど、どこかに柔らかな熱がある。
ついさっきまで、互いに緊張と警戒で張り詰めていた空気は、どこかにほつれ始めていた。
「……命令で来たって、君は言っとったよね?」
ぽつりと、ろまんが尋ねる。
「そういう組織があるんかな? 例えば…“公安”みたいな。……その姿は、あまり“公”の者には見えんけど。まるでドラマとか漫画の世界に出てきそうな
非公開の組織みたいな。」
ふと、師を思い出す。
「さぁね」
イオは即答する。
その表情は変わらないが、視線の奥でわずかに緊張が灯った。
「ふむ。……世界は、まだまだ未知で溢れかえっとるね…」
ろまんは何か思い当たる節があるのか、納得しつつも、すぐに表情を変え微笑みながら、前を向いたまま歩を進める。
「だけど君が言うほどの異常に、依頼主がたった一人を送り込むのは少し腑に落ちんけどね……君一人で“十分”って判断されたんかな?…いや、適任だとは思うんやけどね」
イオは黙った。
その沈黙が意味するのは、拒絶か──それとも、別の何かか。
「……知らないこともある方がいいこともあるのよ」
ぽつりと、イオが言った。
その声には、かすかに切なさが残った。
──しばらく歩くと保管というには生ぬるい、まるで封印の為の言われても疑わない頑丈な扉の前に着いた
ふたりの足が、同時に止まる。
そして、ろまんが振り返り、静かに言った。
「──着いた。ここが君の確認したいものの居る場所」
イオは言葉もなく、じっと前方の扉を見つめたまま、わずかに顎を引いた。
その仕草は、問いを投げる代わりに「準備はいいのか」と無言で尋ねるものだった。
ろまんは軽くうなずき、扉の脇にある制御パネルへ指を滑らせる。
カチ……カチ……ガチィン……
複数の電子ロックが順番に解除される重たい音が、静かな通路に響いた。
直後、扉の内側からぶぅん……という低い共振音のような振動が伝わってくる。
重厚な金属扉がゆっくりと開き、その隙間から“音のない気配”が、じわじわと空間を満たし始めた。
──そこは、まるで真空のような部屋だった。
音がない。
風も流れていない。
なのに、肌がぴりつくほどの“圧”があった。
それは空気というより、空間そのものが生きているかのような異様さだった。
部屋の中央。
薄い白色のライティングに浮かび上がっていたのは──
黒く、半透明の立方体──《キューブ》。
まるで濃縮された闇を切り取って、ガラスに閉じ込めたような物体。
中には何もないようでいて、見る角度によって構造がねじれ、奥行きが歪み、果てはすべてが“平面”に戻る。
それは物理という概念そのものを否定するような存在だった。
空間がそこだけ切り取られ、違う理に属している。
そして、その中心に──確かに“目のような何か”があった。
どこを向いても、必ずこちらを見ている気がした。視線というよりも、“意識”を向けられている感覚。
「……っ」
イオの足が、一歩、無意識に後退る。
その一歩に、彼女を観察していたろまんの脳が震えた。
(……恐怖、か)
それが、少女の身体から発せられるとは思わなかった。
彼女が怯える姿は、ろまんの脳内データベースの中に「例外」として記録された。
この少女が“恐怖”を見せること自体が、既に異常なのだ。
「──“あれ”や」
ろまんが、静かに言葉を漏らした。
「名前も性質も、まったくわからん。ただ一つだけ言えるんは──これは『物質じゃない』ってこと」
そう言いながら、ろまんはキューブの台座にゆっくりと近づいていく。
その足取りには慎重さと、明確な知的興奮があった。
キューブの周囲には、複雑な多層防壁が張られていた。
ろまんが装置に手をかざすと、淡く波紋のような光が広がり、静かに弾かれた。
「最初にこれを見つけたとき、このキューブ状のものは……音を食ってた。
この空間に流れる風の音も、私の足音も、呼吸音すら──消えた。まるで、そこだけ“何もなかった”みたいになぜかはわからんけどね」
イオは目を細め、眉間に深いしわを寄せながら、キューブを凝視していた。
「……これはもう、生き物でも兵器でも技術でもない。概念の異常そのもの。
本能的にわかる。一つでも扱いを間違ったら文字通り“世界が終わる”。だから今はまだ、私には扱えない代物だよ」
イオは静かにうなずく。
「“世界が終わる”…ぼくもそう思う。こんなものが存在してるだなんて…」
続けて問う
「これはこのままここにあったの? あなたが何か手を加えた?」
「この部屋は最初からこのままやね。多層防壁も設置済みやった。どうぞ、いくらでも研究してみろって感じでね。私がやったのは周囲の測定機器を置いたくらい」
ろまんは肩をすくめた。
「私は、そこまで探求心に溺れた馬鹿じゃない。こんなものうっかり触って世界が崩壊しました、じゃ済まないやろ?
……けど、だからこそ興味が尽きない。“なぜこんなものが、ここにあるのか”。それを知りたい」
イオはあの紙に書かれていたことを思い出す。
「あの紙の“託します”って言葉、とんでもないね。……それにこの世界を終わらせる力があるモノを託すだなんて…」
「私もそう思う。まったくいい迷惑だよ」
沈黙が一瞬流れる。
「……さて、これで満足かな?」
「えぇ、とりあえず上には報告しにいく。異常の原因が“存在”として判明したってことと、あなたのことも含めて」
ろまんは苦笑した。
「君の組織がどんなものかわからんけど、私はどうなる?」
「さぁね。どうなるかは上次第」
「せっかくの私の楽しみを奪われたくはないな」
「世界が崩壊するよりはマシでしょ」
「どういう話や。私は崩壊なんて望んでない」
「──あなたが研究すれば、意図せずその引き金になる可能性がある。終わりを防ぐには、あなたを排除する選択肢も当然あり得るってこと。
わかった?つまり大勢が死ぬくらいなら、あなた一人が死ぬほうが合理的」
ろまんは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
イオの視線が、それを見逃すはずもない。
「止まらないって感じね」
「わかってくれると思ったよ」
イオはそれ以上何も言わず、背を向ける。
「とりあえず、今日は帰る。また来るわ」
◇ ◇ ◇
その夜。研究所の天井から吊り下げられた蛍光灯が、カチカチと小さく鳴っていた。
ろまんは椅子にぐったりともたれかかり、首を左右に回す。
背骨がパキパキと心地よく鳴る音に、ほんの少しだけ、体が緩んだ。
「……ふぅ。今日はどっと疲れたな……」
机の上には、過去の文献、乱雑に積まれた測定ログ、乱数列が印字された紙、そして空になったエナジードリンクの缶がいくつも転がっている。
その傍らで、マグカップに残ったホットココアはすでに冷えきっていた。
ろまんはマグカップを手に取り、一口すする。
ぬるくて、すこし甘い。
だが、その甘味が──脳の焦点を現実へと引き戻す。
(……アレを見るだけで精神が削られるのに。今度は謎の組織の“かわいい化け物”まで加わるとはね…これも何かの試練ですか?)
額ににじんだ汗を手の甲でぬぐいながら、ぼやく。
その口元には疲労と、わずかな愉悦の混じった笑みが浮かんでいた。
研究室の奥──モニターの向こうにうっすらと浮かぶ《キューブ》の姿が、暗い中で仄かに光を放っている。
その形はやはり、明らかにこの世界の常識に属していない。見ているだけで、脳の底がざわつく。
(ただただこの現象を研究したいだけなのに、最悪、命まで狙われる羽目になるとは)
だが、そこに怖気はなかった。
むしろそのスリルこそが、ろまんの神経を熱くさせていた。
(……しかしただでは死なない。できる限りの自衛はする。想定はしとったからね。だけど、あの化け物が相手とは…どう立ち回る?)
刀の柄を触りながら少し目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、華鉈イオと名乗った少女の無表情な顔──そして、あの冷たくも合理的な“排除”という言葉。
人間の枠を超えた規格外の身体。
(あの子が襲ってきた場合は頭脳で勝つしかない……だがその対応に時間を食っている余裕もない。やることが多すぎる……)
それでも。
それでも、心の奥では──胸の奥が、高鳴っていた。
今までの人生で、ろまんはこれほどまでに“正体不明”と“死”の匂いが混ざった状況に身を置いたことはなかった。
全ての始まりは師との出会いから。
師の下でろまんは少しずつ学んだ。古文書の解読、失われた刀装具の技術、武具に宿る歴史と思念、目に見えぬ構造の理解や、理屈だけでは説明できない現象に触れる経験は、彼女の脳に小さな興奮をもたらした。
それからの日々は、自分でも驚くほど地味で淡々としていた。独学で科学も掘り下げ、思考実験に没頭し、誰も気にしない古文書や記録にも目を通すようになった。
周囲の人間とは距離を置き、必要なときだけ最低限のやり取りをし、情報を集めては一人で解析する毎日。世の中がどう動こうと関心は薄く、自分の知識や理解の深さが生きる手段となっていた。
そんな日々の中で、師の下で学んだ知識は、着実にろまんの糧になっていた。師から託された刀を手にしてからは、説明のつかない現象が周囲に現れ、少しだけ戦慄することもあったが、対処法も師から学び、そしてこれまでの知識を活かし乗り越えることが出来た。
だが、《キューブ》だけは違った。すべての経験が無力になる。それはもはや存在そのものが異常なのだ。
──理性の端が、ふるふると震える。
そして、その中で脳の回転は限界を超え、彼女の知性はむしろ喜びを覚えていた。
これまで淡々と積み上げてきた日常と知識が、突然、現実の枠を超えた異常に直面する。
ろまんはその瞬間、思わず微笑んだ。脳が飽和する感覚と、未知に触れる喜びが混ざり合う──
(……楽しい)
「さぁ、研究を続けようやないか──」
モニターに映る《キューブ》が、まるでろまんの言葉に応じるように、わずかに明滅した。
